2015年9月8日火曜日

山本周五郎 ながい坂

高校生の頃、短編を中心によく読んでいたのが山本周五郎です。今回、気まぐれに読み始めたのが、この「ながい坂」だったのですが、なぜもっと早くこれを読まなかったのだろうと後悔させられるほどに素晴らしい作品でした。

主人公である主水正のまなざしは、徹底して相対化されています。

「善人と悪人の区別はない、人間は誰でも、善と悪、汚濁と潔癖を同時にもっているものだ、大義名分をふりかざす者より、恥知らずなほど私利私欲にはしる者のほうに、おれは人間のもっとも人間らしさがあるとさえ思う」

主水正は何度も精神的、肉体的に追い詰められます。そんな時、彼がまず取り組むことは、熟慮を重ねることでもなく、解決に向けた行動を急ぐことでもありません。ただただ、自分自身を深く観察しようとします。

「青淵の死は、自分にとって非常な打撃である。こんなとき人はよく、半身を奪われたようなとか、胸に大きな穴があいたようだとかと、受けた打撃の大きく深いことを表現する。自分はどうだろう、主水正はすなおな気分で、自分の心の状態をよく客観してみた。」「おれたちがまったく忘れているときでも、井関川の水は休まずに流れている。」「世の中も人間も時のながれの中にいるし、そのながれは一瞬もとどまることがないのだ。」

そして、精神科医として気になったのが、我が子を失った衝撃から立ち直ることが難しくなっている「ななえ」という女性の描写です。

「ななえの頭は、流産した子のことでいっぱいのようであった。彼女は空想の中でいつも抱いたりあやしたり、添い寝をしていたりするようであった。」「それは空想にとらわれているようではなく、現実そのもののように切実であり、なまなましい実感がこもってい」た。

近親者などの死による悲しみが長期間続き、それにより日常生活に障害が起きている状態のことを複雑性悲嘆と呼びますが、「ななえ」は、それに近い状態にあるようです。複雑性悲嘆については、当クリニックでも将来的に取り組んでいく予定です。今後、当ブログでそのご報告ができればと思います。

最後にもうひとつご紹介です。

「自然の容赦ない作用に比べれば」「貧富や権勢や愛憎などという、人間どうしのじたばた騒ぎは、お笑いぐさのようなものかもしれない。」だが、「お笑いぐさと云われるようなわざを積み重ねるところにこそ」「人間の人間らしい生活をたかめてゆく土台があるんだ」

人間どうしのじたばた騒ぎ。お笑いぐさ。大いに結構。
私も、お笑いぐさと云われるようなわざを、地道に積み重ねていきたいと思います。

それでは、また。